|
B-29は、アメリカ合衆国のボーイングが設計・製造した大型爆撃機。愛称はスーパーフォートレス(''Superfortress'')」。日本では太平洋戦争(大東亜戦争)中より「超空の要塞(ちょうそらのようさい)」と呼ばれていた〔日本ニュース「米機撃墜」 、00:35あたりより〕 〔国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 朝日新聞社編「超空の要塞の正體」昭和二十年一月十五日発行 、B-17が「空の要塞(そらのようさい)」と呼ばれ、B-29がそれを超えるものとして理解された様子が窺い知れる〕が、近年ではよく「ちょうくうのようさい」と誤読されることがある。 第二次世界大戦末期から朝鮮戦争期の主力戦略爆撃機。中型爆撃機構想から発展したB-17と異なり、最初から長距離戦略爆撃を想定して設計された。 当初は陸軍戦略航空軍所属であったが、1947年に空軍の独立とともに空軍へ移管された。 == 開発 == アメリカ陸軍の航空部門は、第二次世界大戦が始まる5年前の1934年5月に超長距離大型爆撃機開発計画「プロジェクトA」を発足させた。これは1トンの爆弾を積んで8,000km以上を飛ぶことができる爆撃機を作る計画で、ヘンリー・ハップ・アーノルド将軍を中心とし長距離渡洋爆撃を想定していた。B-29はこの構想の中から生まれた機体で、1938年に完成した試作機(ボーイングXB-15)から得られた種々のデータや、新しい航空力学のデータをもとに設計製作された。 そして1939年9月1日のナチス・ドイツ軍によるポーランド侵攻が行われた同日、アメリカのキルナー委員会は、陸軍は今後5年間で中型・若しくは大型の戦略爆撃機の開発を最優先とされるべきとの勧告を行っている。 1940年6月27日(ヨーロッパでの戦争は始まっていたが、真珠湾攻撃前なのでアメリカは参戦していなかった)XB-29が発注され、1942年9月21日に試作第一号機であるXB-29-BOがエディ・アレンと彼のチームによって初飛行した。エディ・アレンは試作二号機(製造番号41-003)のテスト飛行も担当したが、1943年2月18日のテスト飛行中に発生したエンジン火災によって機体が失われた際、事故死した。なお、41-003はB-29最初の事故による喪失機である。その後改良が施され、試作三号機(製造番号41-8335)が量産モデルとして採用された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「B-29 (航空機)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|